難解なので推敲している最中です。
2000.9.
窓 すずきみゆき
1
こんなに気持ちが沈んでいては待ちにまった秋の訪れを喜ぶ余裕など全く無かった。
窓から入る夜の湿った空気が冴子の露出した肌に冷んやりと吸着し、冴子はその快感に浸った。
机には仕事が山積みになっていた。
普段の冴子なら充血する目を擦りながら翌日締め切りの原稿書きに没頭するのだが、今夜は違っていた。
怠惰ではない、まるで虚脱のどん底に落ちてしまったように身体が動かないのだ。
冴子は、やっとの思いで、いつもの熱いカフェオレを入れ、今は、気持ちを奮起させる為に口に運んだ。
そして、深い地の底に眠る死人の魂が少しずつ浮上し、あたかも新しい肉体の中に蘇るかのように覚醒していった。
だが、気持ちは無気味なほど落ち着いていた。全く何の感情も湧いて来ないのが恐かった。
ふと鏡に写った自分の姿が、ただ似ているだけの見知らぬ他人に思えてならなかった。そして、鏡の中の『女』が現実の彼女に無関心無表情を装っている事に衝撃を受けた。
鏡を隔てた二つの世界には計り知れない断絶があるのだ。きっと『女』のいる向こう側は、時間の流れを持たない凍った場所なのだ。
それは悪魔の創った『時空の狭間』であるに違いなかった。
だから『女』と自分とが左右対称を成しているという事実を、冴子は到底受け入れる気にはなれなかった。
鏡を見つめていると、冴子は次第にトランス状態のまま目覚めるような感覚におそわれた。そして、しだいに神経が研ぎすまされ集中力が高まっていくのを感じた。
その高まりが極限に達すると、今度はまるで『時空の狭間』に魂が吸い込まれていくかのような感覚が体を支配した。もし窓の外から聞こえる車の音に意識を現実に引き戻されなければ、二度と戻れなかったに違いない。
冴子は心から恐ろしいと思った。一刻も早くこんな馬鹿げた狂気から脱出したかった。
今は、たとえどんな些細な物でも正気を実感できるものが欲しかった。
2
冴子は自分の部屋にいた。 しかしそこは、自分の居場所であるという実感に全く欠け、白々と存在していた。 暗く煤けた『部屋』からは、『時間』の流れや、『部屋』が存在する意味すらも感じられず、冴子が呼吸できる空気がここに存在していることさえ不思議だった。
(もしやここは鏡の中の部屋ではないだろうか)という疑念が浮上し、冴子は思わず柱の時計に目線を移した。
時計の文字盤の文字が鏡に写ったように左右対称ではないことが一瞬でも冴子を安心させた。
しかし、もしこの身体があの『女』の身体と入れ代わっているとしたら! つまり、自分の魂が『女』の身体の中に覚醒したのだとしたなら‥‥
考えたくもない事が大脳の襞の渠にこびり着いて離れなくなりそうだった。
ここは鏡の中の部屋で、全てが現実の部屋と左右対称をなしている。そこで、その事を証明するために時計の文字盤を確認しようと考える。 その文字が現実の文字と異なり、左右が鏡に写した様に全て逆になっていないかどうかを‥‥
しかし、文字盤の文字は現実のものと同じ形だった。 では、この部屋が、鏡の中の部屋では無く、現実の部屋であることが証明されたのだろうか。
否、違う。
何故、現実の部屋であることが証明された事にはならないのか。 理由はこうである。
ここは鏡の中で、全てが現実の部屋と左右対称をなしているから、この鏡の部屋の柱に掛かっている時計の文字盤は、現実の時計の文字盤と、当然、左右対称を成している。 冴子は、時計の文字盤を確認する。
ところが、ここで大事なのは、冴子の身体も、現実の冴子の身体と左右対称を成していることである。
つまり、鏡の中では、左右対称の文字盤を、左右対称の彼女の網膜に映し出し、それを左右対称の彼女の脳で理解しようとするために、実際は時計が左右対称になっていたとしても、その現実を認識することができないのではないだろうか。
要するに、鏡の中の冴子は、鏡の中の文字盤を、現実の文字盤としてしか認識することができない。そういう事ももあり得るとの結論に達したのである。
すると、主観的な形状認識は、実際は何の意味も持たず、感覚として認識し得る形状の全てが、冴子を安心させる材料にはなり得ないのである。
冴子は一刻も早く、自分の正気を実感できるものが欲しかった。
例えどんな些細な物でも‥‥
3
研ぎすまされた神経が妄想を造り出しているのかもしれないと、冴子は頭の片隅で冷静に思考した。
窓から、外の現実の生活の音が聞こえてくるのは、この部屋が現実のものだからではないだろうか。
なぜなら、『音』は鏡には写らないのだから。
冴子はまた、理論を組み立て続けた。
鏡に写る像は、一旦、人間の網膜に写し出され、脳によって認識される概念でしかない。
それどころか、現実の世界が本当に人間の脳が認識する通りの形状を呈しているという保証は何処にも無いのだ。と、普段の冴子ならそう結論を導いていただろう。
だが冴子は冷静さを失っていた。そして何よりも疲れ果てていた。
鏡の中の冴子の顔は神経をすり減らして、骸骨の様にげっそりとしていた。 静かにしていると、心臓が時折不規則に踊るのが伝わってきた。 冴子は、不意に自分の右手首の内側に左手の指を押し当てた。そこには脈々と打つ熱い血流が感じられ、紛れもなく、この肉体が冴子自身のものであることを物語っていた。
長い、長い闘いだった。
次第に脈拍が安定してくるのが分かった。
鏡の中の冴子の頬にも赤味がさしていた。
そして、こちらに向かって微笑んで見せるのだった。
冴子は、心の底から安堵していた。 既に今日締め切りとなってしまった原稿の事を思った。
そして、窓から顔を出しオゾンを充分に取り入れると、珍しく窓を閉めて仕事を始めた。
まるで胎内に籠るように。
最近のコメント