2007.11.23
●合唱曲における歌詞の重要性 すずきみゆき
mixiの「合唱って素晴らしい!」コミュニティで「日本人なのだから日本語の曲を!」というトピックが立てられました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24941934&comm_id=2616847
その中の私のコメントを以下に編集しました。
しかし、これだけでは断片的になってしまいますので、mixiをやっておられる方は上のURLにいらしてみて下さいね。
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母国語以外の合唱曲を否定するつもりはありません。音楽的に美しいものは美しいからです。
でも、Text(歌詞)を読み取るという意味からは、外国語の曲を歌う場合は、どうしても楽譜に載っている解説文や、指導者のTextの説明を鵜呑みにする事になりがちです。
音楽や詩を演奏者の感性や能力で直に鑑賞しそれを再現(演奏)する、また、客席で合唱曲を丸ごと(詩の内容も音楽の美しさも)鑑賞するためには、ほとんどの人にとって Textが自分の普段使っている言語である事が望ましいのだと思います。
独唱と違い「合唱」という演奏形態では一人一人が自分の感性で好き勝手に歌っていたのでは収集がつかなくなりますので、どうしても指導者(指揮
者)の解釈に基づく演奏になるかとは思いますが、Textの意味を直に心に感じて音楽を表現していくという意味では、日本人が日本語の作品を歌うのは最も
自然なことだと思います。
しかし、
Textが日本語であるにしろ外国語であるにしろ、作品(詩や音楽)について充分に理解した上で歌うのであれば、国境を越えて作品が演奏される事は素晴らしい事だと思います。
以上、客観的な考えを述べましたが、
個人的には、私は日本語のTextに作曲しているので、日本語の作品が歌われると、とても嬉しいです。
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合唱曲は「歌詞と音楽のコラボレーション」ですので、外国語の合唱曲を、歌詞をとってボカリーズで歌ったり、ストリングスで演奏した場合は、単純に、むしろ「音
楽の骨組みだけ」になったと言っても良いと思います。「骨組みだけ」と表現したのは、歌詞が省かれる事によって失われるのは「詩の意味」だけではありませ
ん。歌詞の「子音」や「母音」の響きですら音楽の要素として大切な「音色」の一つですよね。その「音色」までも失われてしまいます。
合唱曲を、音楽だけを切り離して鑑賞した場合を考えてみましょう。
例えば、悲しい歌詞に軽やかな曲が付いて、より悲しさが引き立てられている歌もあります。
もしも、ある詩に対して後から曲がつけられた場合に、前述の「悲しい歌詞に軽快な曲が付いている」曲の場合は、歌詞がとれて音楽だけになってし
まったら作品の持つ意味が全く違って来ますし、作曲家の意図も伝わりません。(もちろん音楽の美しさは伝わりますよ。) 究極の言い方をすれば、それは、
作曲家の手を離れて「作品が一人歩きする」極端な事例だと思うんです。
こう考えますと、「作曲家の意図」と「音楽の美しさ」とは全く異なる次元のモノなんですよ。
まあ、例え次元が異なっても、多くの場合、作曲家の意図と音楽とが一致しない歌はそんなに多くはないと思いますが。
歌詞のある合唱曲は、純粋な意味でのいわゆる「音楽」である以前に一つの「作品」です。また、その作品は「詩と音楽のコラボレーション」なのですから、詩と音楽の両者が
揃ってこそ初めて作者の意図を孕んだ「作品」になると言えるわけですよね。この場合、合唱作品の意図を表現するには「音楽」だけでも「歌詞」だけでも不十分な
んです。
作曲家はそういう前提で作曲している訳ですよ。「音楽」だけでいいのなら、わざわざ歌詞のある作品を作ったりはしません。歌詞は少なからず作曲
者の手かせ足かせになり、歌詞があることによって、生み出されるメロディやハーモニー、また、リズムの可能性が極めて限定されてしまいます。(もちろん、
どんな制約の中でも作曲家は均整のとれた音を紡ぎ出しますが…)
もし私だったら、
いわゆる「音楽」だけで聴衆に問うつもりなら、当然のことながら言葉のある作品は書きません。このような場合、自分の音作りに制約を受ける歌詞は(例えその歌詞の内容が好きであっても)ハッキリ言って作曲の邪魔になります。
さて、どのような意図があって作っても、作曲家の手を離れた作品が一人歩きするのは当然の事ですから、それに関しては私もドライに考えています。
が、せめて演奏する方たちには、合唱作品というものは、あらゆる制約の中で作曲家が一つの詩を自分の音楽の中に孕ませ、コラボレーションとしてそ
の歌詞と自分の音楽のために作ったものである、という当たり前の事を、ごく当たり前に受け入れて頂きたいものだと願ってやみません。
どんなにモノズキな作曲家でも、また、どんなに大金を積まれたとしても(ホンマかい?)、自分の中に価値を見い出し得ない言葉を歌詞として自分の
作品に取込んで創作するほど作曲家は多分馬鹿ではありません(汗)。 その歌詞を自分の作品に生かそうと作曲する訳で、それが、歌詞を作品から切り離さない
で演奏&鑑賞して頂きたいもう一つの理由です。
最初にもほんの少しだけ触れましたが、その上、歌詞の「子音」や「母音」、「イントネーション」、「アクセント」等の響きですら音楽を作る大切な要素である「音色」や「音程」、「リズム」の一つなんですから尚更です。
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歌詞のリズムや抑揚と
メロディのリズムや抑揚との関係に留意して民謡を歌ってみました所、予想に反して、Text(歌詞)のイントネーションに一致しないメロディの付いた名曲
を発見いたしました。しかし、民謡ですから、その地域のローカルな(方言の)イントネーションに対応したメロディなのかも知れなかったと今は少しばかり不
安にかられています。その民謡の名曲が「その地域のローカルなイントネーションに対応したメロディ」かどうかは未だに確認しておりません。(汗)
もしかすると、労働のかけ声から生まれた民謡なのかも知れないとも思っています。
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通作形式と有節形式と
文学的なタイプの詩には通作歌曲形式を用いるしかない場合がおおいですよね。
初めから歌詞として作る場合は、常識的に、有節形式で大丈夫なように詞作します。つまり、各コーラス(1番、2番、3番など)の同じメロディ(同じ小節の同じフレーズ)に割り付けられる歌詞のイントネーションが揃うように言葉を選ぶのが原則でしょうね。
ポップスは、曲が先きだからでしょうか?歌詞のディクションに反してメロディが付されている場合が通例のようですね。
もしも詞が先でも、そうなりがちかもしれませんね。
もしかしたら、ポップス特有のノリが優先されるためかも知れませんね。
言葉をハッキリ発音しやすく、言葉と音楽が一緒に盛り上がっている合唱作品として、三善作品を見てみようと思います。歌詞のフレーズ、
メロディのフレーズ、リズムのフレーズ、ハーモニーのフレーズが、見事な調和を成しているということですから。
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