2007年12月13日 (木)

詩【大 樹】  2007.12.13

2007.12.13

 【大 樹】  すずきみゆき

冬の大樹の天辺の また遥か先に

君の通った道が在る

透明な心で 透明な光を遡り

どこまでも透きとおって 逝った

冬の大樹の天辺の また遥か先の

君の道に風が生まれる

透明な風に乗り 透明な光を遡り

どこまでも透きとおって 逝った


冬の大樹の天辺の また遥か彼方の

果てしなく遠い天上よ

君の道は終わり 風は止まったのだ

ああ果てしなく遠い昊(そら)よ

透きとおった一筋の想いが流れ

透きとおった音たちが溢れ出る

どこまでも透きとおった心で

わたしは君のために

音を紡ぐしかない


冬の大樹の天辺の また遥か先に

君の通った道が在る

透明な心で 透明な光を遡り

どこまでも透きとおって 逝った

冬の大樹の天辺の また遥か先の

その道に真っ白な雪が降り積もる

透明な結晶の 透明な光のように

いつまでも どこまでも

君は 透きとおってそこにいる

CちゃんとYさんに捧げる

2007.12.13 みゆき

追記:冬の針葉樹は枯れずにCちゃんとYさんの世界をいつも繋いでいるよ。^^ 元気を出してね。

12/14 推敲しました。

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2007年12月12日 (水)

●ハンカチ  2007.12.12

2007.12.12

●ハンカチ  すずきみゆき

春、親しいピアニストから結婚のお祝いにと頂き物をしていたので、
お返しを探すのに、私は気になる店を覗く習慣がついていた。

高価でもさり気ない物が良い。ピアニストの手に違和感なく優しい、
シルキーなハンカチがいいと思った。

中々、ピンとくるハンカチに出会わない。

でも、やっと十日ほど前、立川のグランデュオでイヴ・サンローラ
ンの逸品を見つけた。
タオルハンカチが流行っている最中、数少ない昔ながらのハンカチ。
上等な柔らかい布地、シンプルでありながら何か主張する個性を合
わせ持っている。あきらかに大人の女性の持ち物だ。

大人の彼女がもっと大人になっても似合うのじゃないか?と想像し
ながら実は私のハートを射止めたハンカチを贈る事にした。

私の持っているコレクションなどには、とうてい見当たらない代物
だが普段シッカリと使って欲しい。彼女、気に入ってくれるかな?
と心配しながら2種類しかない同じ価格のハンカチを買った。

カメラに納めておけば良かったと思った時は、既に包装し終わった
後だった。

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2007年12月10日 (月)

◆ 自由律俳句  2007年12月

2007.12.3

◆ 鳥鳴かず朝が明けない   すずきみゆき

2007.12.5

◆ 目が深呼吸 山が紅葉だ  すずきみゆき

2007.12.10

◆ にもつ捨て羽ばたく    すずきみゆき

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2007年11月29日 (木)

◆ 自由律俳句  2007年11月

2007.11.7

◆ 心も保護色に染まる秋の深みだ  すずきみゆき

2007.11.29 

◆ 晴れたか小鳥の声       
 すずきみゆき 

◆ 重い殻を蹴って私から抜け出す
  すずきみゆき

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2007年11月26日 (月)

●歌詞の発音(発語)と音楽  2007.11.26

2007.11.26

●歌詞の発音(発語)と音楽  すずきみゆき

mixiの「合唱って素晴らしい!」コミュニティで「歌詞の発音(発語)と音楽」というトピックが立てられました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25412464&comm_id=2616847
その中の私のコメントを以下に編集していきます
mixiをやっておられる方は上のURLにいらしてみて下さいね。

===

歌詞のある合唱曲は「歌詞と音楽のコラボレーション」ですが、

歌詞をとってボカリーズで歌ったり、ストリングスで演奏した場合は、
その合唱曲の「骨組みだけ」になったと言っても良いと思います。
「骨組みだけ」と書きましたのは、
歌詞が省かれる事によって「詩の意味」が失われるだけでなく、
歌詞の発音(歌詞の「音色」や「音程」「リズム」)までも失われてしまいます。
歌詞の「子音」や「母音」「イントネーション」「アクセント」等は、
音楽の要素である「音色」や「音程」「リズム」の一つですから音楽の一部ですよね。

また、
歌詞をとってボカリーズで歌ったり、ストリングスで演奏した場合の
別の角度からも考えてみましょう。
例えば、悲しい歌詞に軽やかな曲が付いて、より悲しさが引き立てられている歌もあります。
もしも、ある詩に対して後から曲がつけられた場合に、その曲を、作曲者が意図して「悲しい歌詞にあえて軽快な曲を付けることによって歌詞の悲しさ を引き立たせている」場合は、歌詞がとれて音楽だけになってしまったら作品の持つ意味が全く違って来ますし、作曲家の意図も伝わりません。(もちろん曲が 良ければ、音楽的美しさは伝わります。)

歌詞のある合唱曲は、歌詞と音楽のコラボレーションとしての 一つの「作品」ですから、詩と音楽の両者が揃ってこそ初めて作者の意図を孕んだ「作品」になると言えるわけですよね。この場合、合唱作品としての意図を理 解し表現するには「音楽」だけでも「歌詞」だけでも不十分なんです。

===

音楽だけ聴けば、音楽だけを鑑賞出来ます。
歌詞だけ黙読すれば、鑑賞者の感性だけで歌詞だけ鑑賞出来ます。
歌詞の朗読だけを聴けば、朗読者の解釈を通した肉声の歌詞を鑑賞できます。
そして、
トータルされた歌詞付きの合唱を聴けば、
音楽という質の異なる感動を伴った歌詞を鑑賞できると同時に、
肉声の言葉の発する「音」を伴った音楽を鑑賞出来ます。

 余談です:
  オリジナル(原語と原曲)で歌う(または聴く)合唱からは、
  合唱曲に仕立てた人(多くは作曲家)の創作の意図が読み取れます。
  もちろん、詩を補作したり翻訳したり、
  あるいは、曲を編曲したり編成替えをしたりした作品の方が
  面白かったりする事も少なくありません。
  それらの大半が、原語・原曲に負けないように気合いの入った
  補作者、訳詞者、編曲者の意図と力量が伝わって面白いです。


「音楽」だけでいいのなら、作曲家はわざわざ歌詞のある作品を作ったりはしません。
歌詞は少なからず作曲者の手かせ足かせになり、歌詞があることによって、生み出されるメロディやハーモニー、また、リズムの可能性が極めて限定されてしまいます。(もちろん、どんな制約の中でも作曲家は均整のとれた音を紡ぎ出しますが…)

 余談です:
  どんな編成の作曲をする場合でも楽器や声の特性により
  別の種類の制約はあります。
  この制約は、最低限演奏を可能にするために必要です。
  また更に、作曲者が演奏者の生理を理解した上で、
  演奏者に喜んで、また、より美しく演奏して頂くために
  配慮して作る音楽においては制約が更に大きくなります。
  作曲家はシブシブ制約を受けている訳じゃないんですよ。
  発展的な意味で自ら制約を設けている場合もあるんです。

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2007年11月23日 (金)

●合唱曲における歌詞の重要性  2007.11.23

2007.11.23

●合唱曲における歌詞の重要性  すずきみゆき

mixiの「合唱って素晴らしい!」コミュニティで「日本人なのだから日本語の曲を!」というトピックが立てられました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24941934&comm_id=2616847
その中の私のコメントを以下に編集しました。
しかし、これだけでは断片的になってしまいますので、mixiをやっておられる方は上のURLにいらしてみて下さいね。

===

母国語以外の合唱曲を否定するつもりはありません。音楽的に美しいものは美しいからです。

でも、Text(歌詞)を読み取るという意味からは、外国語の曲を歌う場合は、どうしても楽譜に載っている解説文や、指導者のTextの説明を鵜呑みにする事になりがちです。

音楽や詩を演奏者の感性や能力で直に鑑賞しそれを再現(演奏)する、また、客席で合唱曲を丸ごと(詩の内容も音楽の美しさも)鑑賞するためには、ほとんどの人にとって Textが自分の普段使っている言語である事が望ましいのだと思います。

独唱と違い「合唱」という演奏形態では一人一人が自分の感性で好き勝手に歌っていたのでは収集がつかなくなりますので、どうしても指導者(指揮 者)の解釈に基づく演奏になるかとは思いますが、Textの意味を直に心に感じて音楽を表現していくという意味では、日本人が日本語の作品を歌うのは最も 自然なことだと思います。

しかし、
Textが日本語であるにしろ外国語であるにしろ、作品(詩や音楽)について充分に理解した上で歌うのであれば、国境を越えて作品が演奏される事は素晴らしい事だと思います。

以上、客観的な考えを述べましたが、

個人的には、私は日本語のTextに作曲しているので、日本語の作品が歌われると、とても嬉しいです。

===

合唱曲は「歌詞と音楽のコラボレーション」ですので、外国語の合唱曲を、歌詞をとってボカリーズで歌ったり、ストリングスで演奏した場合は、単純に、むしろ「音 楽の骨組みだけ」になったと言っても良いと思います。「骨組みだけ」と表現したのは、歌詞が省かれる事によって失われるのは「詩の意味」だけではありませ ん。歌詞の「子音」や「母音」の響きですら音楽の要素として大切な「音色」の一つですよね。その「音色」までも失われてしまいます。

合唱曲を、音楽だけを切り離して鑑賞した場合を考えてみましょう。
例えば、悲しい歌詞に軽やかな曲が付いて、より悲しさが引き立てられている歌もあります。
もしも、ある詩に対して後から曲がつけられた場合に、前述の「悲しい歌詞に軽快な曲が付いている」曲の場合は、歌詞がとれて音楽だけになってし まったら作品の持つ意味が全く違って来ますし、作曲家の意図も伝わりません。(もちろん音楽の美しさは伝わりますよ。) 究極の言い方をすれば、それは、 作曲家の手を離れて「作品が一人歩きする」極端な事例だと思うんです。
こう考えますと、「作曲家の意図」と「音楽の美しさ」とは全く異なる次元のモノなんですよ。
まあ、例え次元が異なっても、多くの場合、作曲家の意図と音楽とが一致しない歌はそんなに多くはないと思いますが。

歌詞のある合唱曲は、純粋な意味でのいわゆる「音楽」である以前に一つの「作品」です。また、その作品は「詩と音楽のコラボレーション」なのですから、詩と音楽の両者が 揃ってこそ初めて作者の意図を孕んだ「作品」になると言えるわけですよね。この場合、合唱作品の意図を表現するには「音楽」だけでも「歌詞」だけでも不十分な んです。
作曲家はそういう前提で作曲している訳ですよ。「音楽」だけでいいのなら、わざわざ歌詞のある作品を作ったりはしません。歌詞は少なからず作曲 者の手かせ足かせになり、歌詞があることによって、生み出されるメロディやハーモニー、また、リズムの可能性が極めて限定されてしまいます。(もちろん、 どんな制約の中でも作曲家は均整のとれた音を紡ぎ出しますが…)
もし私だったら、
いわゆる「音楽」だけで聴衆に問うつもりなら、当然のことながら言葉のある作品は書きません。このような場合、自分の音作りに制約を受ける歌詞は(例えその歌詞の内容が好きであっても)ハッキリ言って作曲の邪魔になります。

さて、どのような意図があって作っても、作曲家の手を離れた作品が一人歩きするのは当然の事ですから、それに関しては私もドライに考えています。
が、せめて演奏する方たちには、合唱作品というものは、あらゆる制約の中で作曲家が一つの詩を自分の音楽の中に孕ませ、コラボレーションとしてそ の歌詞と自分の音楽のために作ったものである、という当たり前の事を、ごく当たり前に受け入れて頂きたいものだと願ってやみません。

どんなにモノズキな作曲家でも、また、どんなに大金を積まれたとしても(ホンマかい?)、自分の中に価値を見い出し得ない言葉を歌詞として自分の 作品に取込んで創作するほど作曲家は多分馬鹿ではありません(汗)。 その歌詞を自分の作品に生かそうと作曲する訳で、それが、歌詞を作品から切り離さない で演奏&鑑賞して頂きたいもう一つの理由です。
最初にもほんの少しだけ触れましたが、その上、歌詞の「子音」や「母音」、「イントネーション」、「アクセント」等の響きですら音楽を作る大切な要素である「音色」や「音程」、「リズム」の一つなんですから尚更です。

===

歌詞のリズムや抑揚と メロディのリズムや抑揚との関係に留意して民謡を歌ってみました所、予想に反して、Text(歌詞)のイントネーションに一致しないメロディの付いた名曲 を発見いたしました。しかし、民謡ですから、その地域のローカルな(方言の)イントネーションに対応したメロディなのかも知れなかったと今は少しばかり不 安にかられています。その民謡の名曲が「その地域のローカルなイントネーションに対応したメロディ」かどうかは未だに確認しておりません。(汗)
もしかすると、労働のかけ声から生まれた民謡なのかも知れないとも思っています。

===

通作形式と有節形式と

文学的なタイプの詩には通作歌曲形式を用いるしかない場合がおおいですよね。
初めから歌詞として作る場合は、常識的に、有節形式で大丈夫なように詞作します。つまり、各コーラス(1番、2番、3番など)の同じメロディ(同じ小節の同じフレーズ)に割り付けられる歌詞のイントネーションが揃うように言葉を選ぶのが原則でしょうね。

ポップスは、曲が先きだからでしょうか?歌詞のディクションに反してメロディが付されている場合が通例のようですね。
もしも詞が先でも、そうなりがちかもしれませんね。
もしかしたら、ポップス特有のノリが優先されるためかも知れませんね。

言葉をハッキリ発音しやすく、言葉と音楽が一緒に盛り上がっている合唱作品として、三善作品を見てみようと思います。歌詞のフレーズ、 メロディのフレーズ、リズムのフレーズ、ハーモニーのフレーズが、見事な調和を成しているということですから。

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2007年11月22日 (木)

●音楽家の友人に  2007.11.22

2007.11.22

●音楽家の友人に  すずきみゆき

無理しないでね。なんだか私の若い頃を見てるみたいで気になるんだよね。

余計なこと言っとくけどね、一旦倒れてみれば、何を成すべきで何を削るべきなのかハッキリさせられるから、イイ仕事を選べますよ。(汗)

最近思うんだけど、
キャリアを積んだ音楽家たちが仕事を選んでいるのは、
偉いからではなく、
歳のせいで選ばないとシンドイからかもよ。(苦笑)
一種の「選択の余地無し」の状態なのだ。

私だったら、
仕事を選ぶとなれば当然、稼げる仕事とか難易度の高いプライドを満足させられる仕事が最後に残ると思う。
そういう仕事の信用を維持するためには、仕事の準備の時間を作るために、出来る所は仕事を削って、残した仕事に全力投球して人に負けない仕上がりを目標にするしかないかも。

生き残るためには、私が時々息抜きでやっている「音楽で軽く遊ぶ」事もキケンなのじゃないかってね…最近は思うようになってきたのよ。

もしも、あなたが仕事を選ぶのに充分なキャリアを積んでいるのなら、あんまり欲張らないで仕事してみてよ。
健康第一だし、けっこう期待してるんだからさ〜

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2007年11月 9日 (金)

●心のバリアフリー  2007.11.9

2007.11.9

●心のバリアフリー  すずきみゆき

いわゆる五体満足でも、ほとんどの場合、その人が望むだけの条件や環境を持って生きている訳ではありません。
肉体の物理的な条件も、生きていくための条件の一つでしかないとすると、現実の中で「自分」というものを如何に「生かす」ことが出来るかだと思います。
いま私たちが本当に「バリアーフリー」にしなければならないのは「ものの見方や考え方」のほうだと思います。

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2007年11月 7日 (水)

●いくつになっても  2007.11.7

2007.11.7

●いくつになっても  すずきみゆき

どこの母親もみんな同じなんだなあ…

うちもそうだった…

20歳代最後の年だったかなあ、あたしが体調の悪い母の様子を見に帰ると、「何で来たの? ○○の前なのに。」だって。

○○の前と言ったって、その頃は、私はもうすぐ30のいいオバサンで、子持ちで、5人家族の大黒柱として仕事をして一人前に暮らしていたし、○○なんて自分の立場では趣味の一つとしか考えてもらっていないと思っていたので、母親にそんな事言われるとは思っても見なくて、嬉しいような、また逆に、子どもだと思われて馬鹿にされたような気がして結構ショックでした。

でも、帰り際、「あんたも大人になったわね。お互いに頑張ろうね。」って言ってもらって、やっと対等になれたような気がしました。
んでもって、母を喜ばせたくて子どもらしく(笑)嬉しそうに胸を張って見せると、
「まあ、子どもがいるんだから当たり前よね。」とチクリと一言。

もう、あんなヤツ喜ばせてやらないっ! なんちゃってな事を思っていた事もあったけど…
その母ももう72歳。87歳の殆ど寝たきりの父を介護しながら薬アレルギーの私のために川から汲んで来た水を畑にまいて無農薬野菜を作っている。
やっぱりオッカさんにはかなわないなあと思う。
母親はいつまでも母親で、母にとって子はいくつになっても子なんだよなあ…

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2007年11月 3日 (土)

●「美」を愛する心と「美」を守る行動力  2007.11.3

2007.11.3

●「美」を愛する心と「美」を守る行動力  すずきみゆき

最近、子育て支援のボランティアを始めました。
お母さんと赤ちゃんたちに美しい言葉と心とを育んでもらいたいと思っています。

私の年齢が80歳になる頃には、ボランティアで最初に関わった子どもたちが30歳に成長し、父親や母親になっているでしょう。
もし今、大人たちが若い世代を育てる事に少しでも時間を割いてあげられるのなら、30年後の日本はもっともっと美しい国になるでしょう。 自立した大人と幸せな子どもたちの住む素晴らしい日本に…

けれど私一人の力なんて、ほんとうに微々たるものです。何もしないよりも何かするほうが少しはマシだと思ってはいますが、
将来は「世代間交流合唱団」を作って若い世代と共に美しい言葉を学び、子どもたちには美しい日本語を伝え、私を含むみんなの心に美しい感性を育んでゆけたら嬉しいです。

美しいものを美しいと思い、醜いものを醜いと見極められる感性と、人として成すべき事を実行出来る行動力を養っていけたら嬉しいです。

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2007年10月28日 (日)

●指揮者の背中  2007.10.28

2007.10.28

●指揮者の背中  すずきみゆき

今日も一つ本番が終わった。
私が担当したのは編曲なので、午前中は直前リハーサルに立合わせて頂き、本番は客席で鑑賞させて頂いた。

一般の皆さんは、指揮者を本番でしか見る機会が無いと思う。

例えば指揮者がステージを務めるためには、まず演奏する楽譜を充分に読み込まなければならない。作品を分析し、初演であれば、おやっ?と思った所(入譜ミスや疑問点など)をチェックする。
アレンジャーがゲネプロの数週間前に納品したスコアが、たとえ指揮者の手元にはゲネプロ直前に届いたとしてもグタグタ言わずに、それだけの仕事を全力でこなす。

我々作編曲家も時間との戦いであるが、指揮者も同様なのだと思う。

本日の直前リハーサルでは合唱とオーケストラにタクトを振りながら音響や照明のスタッフにも指示を飛ばし、スライド中心の コンサートとしては良いとは言えない環境下での、少しのもたつきも淀みも見られない正確かつ誠実な仕事ぶりは脱帽ものである。
こんな優秀な指揮者がご近所に居られる事を誇りに思う。是非、次回は私たちに充分な時間を与えて頂き、音楽家としての能力を120%発揮しうる環境で仕事をご一緒したいと思った。

その方の名は江上孝則さん。

ゲネプロと直前リハーサルをご一緒したこの指揮者の背中が格別に頼もしく映った今日のコンサートだった。

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2007年10月24日 (水)

◆ 自由律俳句  2007年10月

2007.10.13

◆ 夕べの洗濯を干そう小鳥の声     すずきみゆき 

一昨日、眼科で眼鏡の処方箋を書いてもらい、
昨日は、眼鏡を作りに行きました。
11/5には境目の無い遠近両用の眼鏡が出来上がります。

今朝詠んだ句です。

2007.10.24

◆ 朝の窓に秋陽溢れ何度も伸びをする  すずきみゆき

猫になった気分です。

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2007年10月18日 (木)

●"笑うせえるすまん"のような業者  2007.10.18

2007.10.18

●"笑うせえるすまん"のような業者  すずきみゆき

ネットの友人tomtomさんのmixiの10/17の日記を読ませて頂いて綴ります。
mixiやっている方は、訪れてみてください。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=594935753&owner_id=3879221&comment_count=2

みょうな時代になってきましたね。
数十年前でしたら、高学歴と言えば皆キャリアを積むべくして積んできたのだと思います。

1990年(だったかな?)春、
あたしが学部を卒業する時は、作曲科の学生20名中16名が学部を4年間で卒業し(あんがい優秀な学年だった)、大学院修士課程の定員9名の作曲に進んだのは僅か3名(定員の三分の一)でした。
私の学年は、葉加瀬太郎さん・斉藤恒芳さん等の「クライズラーカンパニー」や榊原大さん等の「Gクレフ」に象徴される、ミュージシャンとして芸能界にもデビューしたグループの多い学年でした。商業音楽の分野で他の作曲の同級生たちも結構忙しく仕事をしています。

自分の欲求が満たされる魅力的な仕事さえあれば大学院には行かずに済ましてしまえた・・・究極、どんだけ人に聴かせてナンボの音楽界ですからね、その「お客さん」を待たせてまで成すべきモノなど何も在りはしない、というのが基本的な姿勢だと私は思っていました。(笑)

しかし、今は、
音大卒者の仕事も侭ならないし、教育産業の顧客拡大でもって無闇に「大学院進学」は勧められるし・・・これでは、いたずらに不用な高学歴人間を生産してしまいますよね。(苦笑)
昨今、センスもなく表現者としての自立もしてないような演奏者でも「ハクをつけたい」とせっせとお金と時間をつぎ込んでいます。
そんな「彼ら」から時間とお金を巻き上げて稼いでいる教育産業の業者がいるわけですね。

ところが、その「彼ら(=当の本人たち)」は、自分が教育産業の餌食になっているとは思っていない(いや、餌食にはなっていないと思い込んでいる、というか、思いたくないというのがきっと本音でしょう)。むしろ教育産業にノセられる事で「彼ら」は形だけの "自分の存在意義 (=生きる証というか大義名分)" を、人生の多大な時間と高額な金銭と引き換えに得ている訳です。ワビシさ満点です。

・・・アレですね〜 「あなたの心の隙間をお埋めします。どーーん!」という"笑うせえるすまん"のようですよね、教育産業の業者って。(爆)
まあ、"笑うせえるすまん"はセールスマンと言ってもボランティアですから、まだ可愛げがありますがねえ。。。

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2007年10月 9日 (火)

●人としての調和が素晴らしいハーモニーを作る  2007.10.9

2007.10.9

●人としての調和が素晴らしいハーモニーを作る  すずきみゆき

たくさんの人々のパワーを結集した全国川サミットのゲネプロが終わりました。
驚くほど曲数が多くて2曲やり残したようですが、演奏もなんとか形になっていて、バランスも指揮者、音響さん、客席で聴いている私と他のスタッフの方たちで聴いていました。PAの出力のバランスが大きめになるとナマ音の美しい倍音をぶっ壊してしまうので、本番はほとんどナマでやっても なんとか成功するのではないかと私は感じました。

しかし、それはゲネプロを聴いた結果なのであって、実際にはゲネプロをやらないうちに計画を立てなければならず、また、失敗するわけにもいかず…、
やはり音響さんたちにスタンバイしてもらっていないと不安は大きかったと思います。音響さんも優秀で良かったです。

準備万端整えて安心してゲネプロが出来た事は、やはり準備をしてきて下さった土木課の担当者と準備やゲネプロにたずさわった音楽関係者全員の功績だと思います。
しかし一部、提出した筈の楽譜がどこかに紛れていてゲスト出演者に渡っていなかったという事故があったにも関わらず、そのせいでゲネプロが止まった時間はほんの一瞬だけでした。
皆が一つにまとまって大きなイベントに向っていく素晴らしさも感じられ、ゲネプロは全体として良かったです。

指揮者の江上先生、ソプラノの國井先生、ピアノの川村先生、江戸フィルのみなさん、少年少女や大人の合唱団のみなさん、川サミットの準備やゲネプロに携わったスタッフの皆さんの「人としての調和が素晴らしいハーモニーを作る」のだと実感でき、充実した時間がもてました。ありがとうございました! 練習と本番もよろしくお願いしま〜す!
川サミットが終わっても、このメンバーを中心に協力し合い、江戸川区を素晴らしい音楽都市に育ててゆきたいです。

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2007年9月18日 (火)

●野望  2007.9.18

2007.9.18

●野望  すずきみゆき

DNAによって花は自らが花という個体になっていきますが、音楽は完全に人工の創造物です。それでも美しいという点では一緒です。
「美」という観点で、芸術(自分の作品)が、自然(神)の造形物を超える時を一度でも経験できたなら、いつ死んでも悔いは無いと思います。

生きて自分を保ってゆく為に、人間には闘う対象(敵・ライバル)が必要だと痛感しますが、
私の場合、
 子どもの頃は、私の敵は私の自分の外部に存在しました。
 大人になって、私の敵は自分自身だと気付きました。
 最近になって、色んな意味で、敵は大自然だと感じます。

人間は神の造形物の一つでありながら、その神の造形物である「自然」と共存できないでいます。
もしかしたら人間は、神が作り損ねた造形物 = 自然界のガンなのではないかと私には思えるんですね。
そして、人間以外の造形物たち(大自然)と闘い、神々の領域に侵入しようとする大胆不敵な輩が、実は巷で「芸術家」と呼ばれている人種なのかも知れません。

神の作った法則"DNA"によって 花々は自らが花という個体に成り「美」という薫りを放ちます。
しかし、芸術家たちは「作品」を造り出し、「美」という観点で、彼らの作品が神の造形物を超える事は出来ないだろうかと、不適な笑みを浮かべている。
そして、ある日、大胆にも神の領域に足を踏み入れ、彼らの創造物である「作品」の力で人々を陶酔させるのです。

人々は昔から芸術家がそんな存在であると知っていたのではないでしょうか?

芸術家たちのその行為が神の怒りを買うか、あるいは神に祝福されるか…
それは、作品を造り出す彼らの腕にかかっているんです。

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2007年6月 4日 (月)

●嗚咽  2007.6.4

2007.6.4

●嗚咽  すずきみゆき

今 日は、自作の組曲「陸中の海」の暗譜が上がったのでレモンチューハイを作って飲んだ。あ酒の勢いもあって感情のおもむくまま通しで弾いた。内蔵が表側に ひっくり返ったかの様に、内面を露にし、声を出し、クライマックスを築いてゆく中、瞳から一筋の透明な何かが次々と溢れ出し止まらなかった。

その時私は、もはや作曲家ではなく、また、演奏家でもなく1人の聴衆に過ぎなかった。手は自然に動き、しかし、時々ふるえる感情に押し流された指 が戸惑っていた。音を修復しようとする理性よりも、とどまる事を知らない沸き上がる熱いもののほうが勝っていた。不意に飛び出した音に驚きもせず、沸き上 がる想いを次々と指に託して、音の修復は驚くほど容易で自然だった。

何十年ぶりだろう? 私自身のためにピアノを弾いたのは。
小学生のころ以来ではないだろうか?

終局で最高のクライマックスをむかえ、椅子から腰を浮き上がらせて最低音を含むトーンクラスターに上体の重心と全てのエネルギーをのぜた。空間を 満たした残響を、ゆっくりとペダルで消してゆき、自分を支えられる程度まで気持ちが落ち着くのを待って立ち上がり、誰もいないレッスン室で深々とお辞儀を した。
ピアノの椅子にかけ直すと、意に反して、「わたし」は腹筋をふるわせ、わけの解らない感情を押さえきれずに嗚咽していた。

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2007年5月 9日 (水)

詞【勇気】  2007.5.9 若い頃のように・・・空腹。でも素晴らしい気分!

昨日は帰宅してから、米びつに残っていた2合半の玄米を炊いて、昼はマツモのお吸い物でご飯に蕗味噌を合わせて食べた。夕飯はワカメのみそ汁と海苔と梅干しで食べた。


2007.5.9

 【勇気】  詞:すずきみゆき

なんにもいらない
 音をつむぐ指さきがあれば
なんにもいらない
 口ずさむ唇があれば

目をとじて
 しずかに耳をかたむければ
子どもたちが窓辺で
 愛と勇気をかなでている

五月の空高く
 飛びたつ鳥たちには
地位や名誉なんて
 重い荷物でしかないさ

ちいさな翼に
 大きな夢と希望をだいて
あおい空を
 どこまでも羽ばたいてゆこう

==

今日は食べる物が無い。
すると母から電話があって、今から野菜を送ってくれるという。
しかも冷凍したマグロと冷凍した赤飯も一緒に!
ほんとうに助かる。明日になれば食料が来るのだ。

今日は、実家から持って来たユバを水で戻してお吸い物に入れよう。
流しの下を探すと、以前送ってもらった米粉がある。これを水でといでバターと砂糖とココアの粉を入れて混ぜ、弱火で硬いココアクリームケーキを作った。
美味しい! 明日まで何とか食いつなごう。

実家では奉納コンサートが中止になった代わりに、自作の組曲「陸中の海」を改作し始めたんだ。
1曲目は変更無し。
2曲目は少し変わった。今まで盛り上げ難かった箇所がだいぶ表現しやすくなったと思う。
3曲目はこれから考えよう。最後のカデンツァがどうにもバタ臭くてイケない。気に入らないのだ。

若い頃のように数分の時間を惜しんで推敲する。いい感じだ。
健康というのは有り難いものだ。内的エネルギーが溢れてくる。
今のうちに色々な事をやっておきたいと思う。
(Dr.O、どんどん運動もしなけりゃ…ネ。ハイ、ちゃんとしますよ。)

ほんとうに素晴らしい気分だ! もったいなくて時間を全て音楽に捧げたい。
でも、ご飯も作って運動もしなけりゃあね。健康あっての創作だからね。
家族も大事にしなくちゃね。だって一人で生きているのじゃないからね。

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2007年4月17日 (火)

◆ 自由律俳句  2007年4月

2007.4.07(退院の翌日)

◆ 空砲の鳴ったスタブロで力を溜めている  すずきみゆき

スタブロ = 短距離走で使うスターティングブロック
         

2007.4.17

◆ どこまでも駆けぬけたい春風が吹く    すずきみゆき

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2007年4月 7日 (土)

●検査を終えて  2007.4.7

2007.4.7

●検査を終えて  すずきみゆき

あと10年くらいは今まで通り頑張りたいと思います。
ライフワークの完成には なんとか足りる時間で良かったです。
もうズッコケないようにシッカリ健康管理をしようと思います。

昨日の夜、外泊許可を頂き事実上退院しました。
書類上は今日10:00の退院になりますが、午前中は合唱指導があるため午後手続きをしにいきます。

今回の検査では、首の静脈と足の付け根の静脈からカテーテルという数本の管を心臓まで入れて電気的刺激を出し、わざと心室性機外収縮を起こさせたり、心拍数を徐々に170まで上げたりしてみました。

検査の結果、房室結節という所にビミョ~に面白い刺激の伝わり方が無くは無いようでしたが当分は問題ないということでした。
心臓の機能はほぼ大丈夫で、走っても良いそうですが、あいにく腰と膝が悪く接骨院に通院しているためウォーキングを続けながら週1で水泳も始めて心肺を鍛錬しようと思います。

今までに心拍数が140以上になったり、50以下になったりしましたが、心配しなくても良さそうです。(汗)
心因性のものではないか?と思われるらしいのですが、アタシってそんなにデリケートでしたっけ?(苦笑)

まあ、これからは、やる事を少し整理して、ゆったりとした気持ちで頑張りたいと思います。

というわけで、未だに煙草は(煙も)ダメですが、少量のアルコールは大丈夫かも?です♪^^

大好きな恵比寿ビールの竹のグラスで…

これはキッチンの料理用兼飲用の日本酒。(笑)


~ 検査を終えて ~

筋肉はリズムパターンを記憶するか?

●わざと心室性期外収縮を起こさせる検査では、
6/8拍子:付点四分音符 - 四分音符 - 八分音符(チーーチーキ)というスイング系(といっても転んでいないキチットしたリズム)にペーシングされました。
(余談ですが、付点四分音符が期外収縮だと思うので、正確に表記すると、Moderato 3/4拍子で、四分音符 - 八分音符 - 付点四分音符のリズムで、機外収縮である付点四分音符にアクセントが付き(付点四分音符の拍動が強くなり)、シンコペーションが形成され、その結果として 「6/8 拍子:付点四分音符 - 四分音符 - 八分音符(チーーチーキ)」というポップなノリに聞こえる訳です。)

そして、このリズムパターンは電気的な刺激の通電を中止しても数分間は続きました。

その結果↓
心臓というものは(あるいは筋肉というものは)一定のリズムパターンを持つ運動を好み、それを速やかに記憶するのでは無いかと感じました。もしかしたら、リズムパターンを覚え難い筋肉の持ち主はリズム感がホニャラニャなのかも知れません。

 

心拍数と時間の感覚との関係

●また、心拍数を徐々に170まで上げたりしてみました。

その結果↓
私の心拍数が150になっている時に、その150の速さが私には132の速さに感じました。また、私の心拍数が170になっている時でも、私には152くらいにしか感じませんでした。
     ↓
普段の練習でスケールを弾ける最も速いテンポが「132」であるとします。
ところが、検査中に、心拍数150の状態で指を動かしてみたところ、150のテンポでも違和感なく充分にスケールが弾ける感じがしました。
ワタシの場合(あるいは演奏家の場合)、ステージ上で心拍数が上がっている状態では、絶対的なテンポ(メトロノームなどの正確なテンポ)を実際よりも遅く感じるため、相対的に速いテンポで演奏したくなる傾向があるように思います。
もちろん、心拍数が上がり過ぎますと意識がモーローとしてきますから、この理論は成り立ちません。

いずれにしても、テンポ感というものが絶対的なものではなく、心拍数に影響されるものらしいことは、ある意味で困りものなのですが(滝汗)、このことをうまく利用すれば、指の運動性を高める事ができます。

また、「自分の心拍数が上がっている時は、メトロノームが繰り出す絶対的なテンポを普段よりも遅く感じてしまう」事と「心拍数の速い子供時代には、心拍数の遅い大人の時代と比べると、時の流れ(絶対的な時間)をゆったりと感じている」事とは多いに関係があるように思います。
以上は音楽家としてのワタシの所見であり、検査の目的とは関係ありません。^^

「勘」を過信してはいけない

身体と感覚は緻密に繋がっているのだという事、また、人間の感覚は主観的かつ相対的なものである事などを実感出来たという点においても、有意義な検査でした♪ 今度は、是非、心拍数を遅くした場合のテンポ感覚の変化も体験してみたいです。(笑)
脈拍のコントロールがし難くなる。更年期にはありがちな事らしいですが、テンポ感が心拍数に影響を受ける以上、自分のテンポ感を過信する訳にいかなくなったという事でしょう。
いずれにしても、長い経験で培われた「勘」だけを頼っていては重大なミスを犯す可能性がある、そういう年齢になったのだと思いました。

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2007年3月 8日 (木)

詩【キッチン】  2007.3.8

2007.3.8

【キッチン】  すずきみゆき

 

いつもは私が居るその場所に

今日は夫一人が入って支度していた


大して美味な出来映えでもないが

ほおばった粥が私をほころばせた

おいしいねえと言うと

当たり前だとぶっきらぼうに返す

陽だまりのようにぬくい声だった



寝ていろと言われて休んでいると

もう帰るぞ 来なくていいから

と とおい声がする


だって鍵かけに行かなくちゃ…

今日は玄関までしか見送らないから

と言い切らぬうちに あたりまえだ

と 今度は静かに答え

外からノブをぐっと押さえた


夫の足音が不規則に離れていった




あーあ

どうせ洗いものと生ゴミの山だろうから…

でも今日は休んで 早く元気になろう




熟睡した翌朝

すっかり楽になってキッチンに立つと

洗った茶碗がホーローのボールに並び

生ゴミは金ザルにまとめられていた


目をまあるくして見ていると

ボールからはみ出したお椀に一つ

洗い残しが見つかって

オレが洗ったんだと自己主張していた

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2007年2月18日 (日)

椿きっちり咲ききって落ちるその日まで  久光良一

こんばんわ。
今日は気分が良いので自転車で家を出て、午前中は近く の区民館で、午後は橋をこえた遠い会場で、それぞれ別 の合唱団のピアノを弾きました。
練習が終了後、顧問と役員さんと夕食をご一緒し、夕暮 れ時に店を出て、小雨降る中を自転車で帰宅しました。
ちょっと大変だったけど生きている手応えがありました。

>  椿きっちり咲ききって落ちるその日まで

私も音楽家として斯くありたいものです。(・_・)

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2007年2月17日 (土)

踏まれて踏まれて道になった道である  久光良一

一人通っただけでは足跡しかつきません。そして、足跡はすぐに埋もれてしまいます。音楽もただ作っただけでは作品とは言えないのかも… どんどん演奏されて聴衆の心に住みつくようになって初めて作品と呼べるのかも知れませんね。りょうさまの句を読んで、そう思いました。

今日も2時頃までには寝られると思います。明日は午前中に主宰する合唱団のピアノを弾いて、午後は午後で別の合唱団のピアノを弾きます。あと1時間半で準備を終わらせられそうです。

明後日は、クラリネットの方と合わせがあるので、明日は、その練習もしなければなりません。ああ、もっともっと時間が欲しいです。

どうしても読みたい本があったので入浴しながら読書しました。文庫本100頁ほど進みました。^^

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2007年2月16日 (金)

◆ 自由律俳句  2007年2月

(逆光の樹影が叫ぶ風のいらだち  久光良一)

こんばんわ。
風といえば、最近、外壁や窓を叩く風の音を聞いて風の表情を読みとっています。また、時折、杖をついて風の道を歩かねばならず、よろけない様に寧ろシャンと背中を伸ばしますから面白いものですね。(笑)

昨日、循環器科を受診しました。検査の必要があるようで、「全部終わってからでいいから…」と言われました。そう言われても、実際に全部終わらせ るには一生かかります。どうしても区切りをつけなければならないなら、既にチラシなどの広報をしてしまった最後の演奏会(3/4の本番)で、一旦けじめを つけねばなりますまい。
他にもやり残した事を、出来る範囲で片付けようと思います。次回の受診日(3/12)に色々決めてきます。

2007.2.15

◆ 透明な心を片付けている 風の音  すずきみゆき

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2007年1月31日 (水)

◆ 自由律俳句  2007年1月

2007.1.23

◆ 目を細め手乗り地蔵に見入る初詣      すずきみゆき

◆ 石持たぬ魂も合わせた手の中で暖か     すずきみゆき

◆ 日々生きてゆけば彼岸の君に近づいている  すずきみゆき

2007.1.31

◆ 白梅ほころびぬ春まだ幼(いとけな)し   すずきみゆき

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2007年1月16日 (火)

詩【好きっていうこと】  2007.1.16

2007.1.16

【好きっていうこと】  すずきみゆき

ほんとうに大切だから
ただ甘える事よりも
彼を守るために
妻になったように

ほんとうに大切だから
ただ癒される事よりも
音楽を仕事にしている

好きだから
生涯をかけて 責任を負って
ピアノを弾き 作品を作り
そうんなふうに二人で生き抜くんだ

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